「君が誰かに憎しみを感じているのなら,それは彼の中にある,君自身の一部を憎んでいるのだ。自分の一部ではないものは,私たちの心を乱したりはしないものである。」 (ヘルマン・ヘッセ)
「デミアン」(Demian) の一節。
something in him that is part of yourself において,関係代名詞 that の先行詞はsomething。「君自身の一部でもある何か,それが彼の中にもあってそれを憎む」ということ。
好きな自分と嫌いな自分がいる。
でも,嫌いな自分など,見たくはないし,見せられたくもない。
好きな人と嫌いな人がいる。
好きな人といっしょにいると,好きな自分を見せてくれる。
嫌いな人といっしょにいると,嫌いな自分を見せつけられる。
ってなところか。
ヘッセが好きだったのは,中学生の頃だ。「デミアン」もその頃読んでいる。
好きといっても,単なる青春小説として読んでいたような気がする。大学生くらいが主人公の青春後期小説(いま作ったことばだが)ではなく,青春前期小説である。いつの時代にもある,大昔なら石坂洋次郎みたいなやつ。今ならば誰だろう。綿矢りさ?島本理生?作者が若いというだけか。あさのあつこ?いや,ケータイ小説があったか...
上のヘッセのことばを「デミアン」で知ったのかどうか,記憶ははっきりしない。でも,そのことばの思想にはずいぶん昔からなじんできたような気がする。今自分が感じている憎しみ,嫌悪は,結局彼のせいではなく,自分の中に淵源があるものにすぎない。他人に責任を押しつける方が楽だから,こういうものの考え方は精神衛生上よろしくないように見えるかもしれないが,そうでもない。他人を憎むことも十分ストレスであり,人によっては自分で背負った方が楽な場合もある。
そんなふうに思ってきたのだが,さてそれも結局,背負っている自分の姿に悦に入っているだけではなかったのか。まあ,そこから先は堂々巡り,無限の穴掘りになってしまうので,とっとと切り上げよう。