オバマ大統領就任演説の英語解説 おまけ

オバマ大統領が1月20日(日本時間では21日)に行った就任演説の英語全文とその語句解説を数日前に取り上げました。

 

オバマ大統領就任演説の英語解説1

オバマ大統領就任演説の英語解説2

Wordle: obama

この就任演説についての反応をひろってみます。

 

その前にオバマ演説の全文のなかの頻出語彙をタグクラウドふうに抜き出すとこんな感じになりました。作成はwordle。クリックでそっちのサイトに飛びます

 

日本では,「好意的」を通り越して手放しの絶賛に近い反応が多いようです。過去の就任演説と比べて絶賛しているわけではありません。もともと日本人は(あるいは世界の大多数の人は)アメリカの大統領の就任演説に関心があるわけではないでしょう。野口悠紀雄氏だったか,英語の勉強法としてケネディの大統領就任演説の丸暗記を勧めたことがあったせいで,英語学習者界隈ではそれなりに関心があったかもしれません。でもしょせん他国の元首が自国民を前に行った演説ですから,これほど関心を集めたことは異常といえば異常です。オバマの登場が世界史の中で画期的であること(+ブッシュがあまりにひどすぎた)もむろんありますが,むしろ日本の政治家が,ことばによって人の心を打ち,ことばによって国民に進むべき方向を示そうとしないことへのいらだちの方が強いでしょう。

内田樹氏はブログの中で,オバマ演説を「アメリカの行く道を『過去』と『未来』をつなぐ『物語』によって導き出」していると評価した上で,日本のメディアが語る方向の議論をさらに延長して,それにひきかえ日本の政治家はこういう言説を語る人間がいないが,「日本人というのは『それにひきかえ』というかたちでしか自己を定義できない国民である」と述べています。「国民」という概念は他者が存在しなければ成立しえないと私は考えますが,内田氏のいっていることはそういう話ではないでしょう。過去と現在をつなぐ物語を日本の政治(国民)は形成しえていない,そのようなことばを生み出せていないということでしょうか。もちろん,そうした物語が機能している国はアメリカ以外にあるのだろうか,という疑問もありますが。

 

アメリカでの評判は,評価の声と軽い失望の声があい半ばしているようです。日本ではオバマ氏の演説vs.日本の政治家の演説という比較において評価されているわけですが,アメリカでは,過去のオバマ氏の演説や過去の大統領就任演説と比較されるわけで,ハードルははるかに高くなりますから,それも当然だと言えるでしょう。過去の大統領の就任演説では,1933年 ルーズベルト大統領第1期就任演説1961年ケネディ大統領就任演説1981年レーガン大統領第1期就任演説 の評価が高く,また,オバマ氏の演説の中では就任演説よりも2008年11月4日 大統領選 勝利演説を「感動的」と評価する声が強いようです。

ポスト・モダン系の文学者であり,日本でも「このクラスにテクストはありますか」という訳書で知られるスタンリー・フィッシュ(Stanley Fish)は定期的寄稿をしている The New York Times で就任演説を取り上げています。("Barack Obama’s Prose Style")「オバマの就任演説は聞くより読んだ方がパワフルだ。」で始まるこのコラムは,まず今回の演説の特徴を parataxis (並列)という修辞学用語で要約しています。 parataxis とは,つなぎ言葉なしで文章を連ねていく技法。フィッシュは,オバマの演説の中に and や so 以外のつなぎ言葉が極端に少ないことを指摘します。たしかに,firstly, secondly とか,therefore とか for example のような文と文の論理的な関係を表す語句が英文には珍しく少ないように思えます。しかしフィッシュはそれを否定的にとらえているわけではなく,「聖書に似ている」として,そのパワーは論理的に構築された主題にではなく,反復の多い個々の文の流れの一瞬一瞬の中にあると讃えています。最後には,やがてこの演説が何千もの教室で議論されるだろうし,「キャノン(正典)化はすでに始まっている」とまでいっていますから,ある意味での絶賛と言っていいでしょう。

言語学系ブログのLanguage Log の寄稿者Mark Libermanは,これに異を唱えています。フィッシュの「つなぎことば」の少なさに関しては,2005年のブッシュ演説は10であったのに対し,オバマ演説は14のつなぎ言葉を使っており少ないとは言えないと数字を挙げて反論しています。「論理展開」に関しても,文と文との間に論理性が保たれていると例を載せてフィッシュ説を批判しています(言語学的意味での結束性(cohesion)が保たれているとの主張)。オバマ演説を,ワシントン・リンカーン・ブッシュ演説の埋め込み文の数や平均語数で比較したデータも載っています。

なるほどデータ的にはそうなのでしょうが,わたしはフィッシュの議論の方が印象としては共感できます(ほめすぎだとは思いますが)。もういちど後で触れます。

おなじく Language Log の寄稿者 Geoffrey Nunberg がUCB School of Information のページで述べているのは,オバマ演説は記憶に残るものでも,歴史に残るものでもない,そしてそのことはこの演説の弱点ではない,ということです。過去の演説の典型的レトリックをとりあげながら,就任演説が過度の修辞に飾られていた,飾られるべきだとされていた時代はケネディで終わったのだ,としています。

Obama didn’t do a lot of rhetorical overreaching — he did just what he needed to do to nail the event. No, it wasn’t a speech for the ages. But I was reassured that he kept his coat on right side out.

オバマは修辞的に大げさな行き過ぎをあまりすることはなかった。彼は儀式をやり遂げるのに必要なことをしたにすぎない。確かに,歴史に残るスピーチではなかった。しかし,彼は場違いなことはしなかったのだから,私はほっとしている。

 

オバマを有名にした2004年の民主党大会基調演説では,自らの生い立ちをアメリカの歴史と理念に重ね合わせて,誰にでもわかる言葉と単純明快なレトリックで,ほとばしる情熱をこめて語っていました。

Well, I say to them tonight, there is not a liberal America and a conservative America — there is the United States of America. There is not a Black America and a White America and Latino America and Asian America — there’s the United States of America.

「私は彼らに言おう。リベラルなアメリカも保守的なアメリカもない。あるのはアメリカ合衆国なのだ。黒人のアメリカも,白人のアメリカも,ラテン系のアメリカも,アジア系アメリカもない。あるのはアメリカ合衆国なのだと。」

また,2008年11月4日の大統領選投開票日の勝利演説で,アトランタで暮らす106才の黒人女性の話を交えて,自分が初のアフリカ系大統領となったことの,そしてそれが表すアメリカの変革の意味を語っていたのはご存知でしょう。

And tonight, I think about all that she’s seen throughout her century in America — the heartache and the hope; the struggle and the progress; the times we were told that we can’t, and the people who pressed on with that American creed: Yes we can.

「そして今夜,私は思いを馳せます。この100年間のアメリカで彼女が目にしてきたものすべてに。その心痛と希望に。そのたたかいと前進に。『できっこない』といわれた時代に。それでも歩み続けた人々に。 Yes we can というアメリカの信念を胸に。」

これに対し,就任演説は,change や Yes we can をひと言も語らず,アフリカ系であることの意義にもほとんど触れることなく,「わたし」ではなく「わたしたち」に終始しました。論旨も行きつ戻りつしながら,アメリカの理念の不滅と,現在の危機からの再起への希望と自信を繰り返すのみです。

Starting today, we must pick ourselves up, dust ourselves off, and begin again the work of remaking America.

概して以前のスピーチに比べると,淡々と物静かに説得するように語っているような気がしました。パフォーマンス的には弱まっていますが,それが大統領としてのことばなのかもしれません。

まあ,当然なのでしょう。アメリカの大統領選は一種の擬似的内戦であり,議事堂前に立っていたのは,まずクリントン,次にマケインという敵と戦わなければならないリーダーではなく,内戦終結後の国を立て直さなければならない最高権力者なのですから,国民に和解を呼びかけることが先決です(就任時の支持率はケネディに次ぐとはいえ60数パーセント)。

Nunberg のいうとおり,派手なレトリックで語る時代は終わったようです。それでも「政治におけることばへの信頼」は揺るいでいないようです。アメリカという国では,「理想」や「希望」という語が死語になってはいないことに驚かされます。それに何の邪気も衒いもなく歓声をあげるアメリカ人にも。さらには,それに少しだけ惹かれてしまう自分にも。

アメリカには常にあこがれのようなものと,敬遠や呆れや時に反発を感じてきたわたしですが,今回もその両者が混じり合うことのないまま,静かに沈殿しているようです。

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