最終回です。
ホームズ一行が到着する寸前で逃亡したアイリーン・アドラー。最終パートは彼女がホームズに遺した手紙から始まります。アイリーンはホームズが関与していることさえ知らなかったはず。手紙の存在自体,事件の展開に暗雲を漂わせることになります。
<― 朗読
My Dear Mr. Sherlock Holmes:
You really did it very well. You took me in completely. Until after the alarm of fire, I had not a suspicion. But then, when I found how I had betrayed myself, I began to think. I had been warned against you months ago. I had been told that if the King employed an agent it would certainly be you. And your address had been given me. Yet, with all this, you made me reveal what you wanted to know. Even after I became suspicious, I found it hard to think evil of such a dear, kind old clergyman. But, you know, I have been trained as an actress myself. Male costume is nothing new to me. I often take advantage of the freedom which it gives. I sent John, the coachman, to watch you, ran up stairs, got into my walking-clothes, as I call them, and came down just as you departed.
Well, I followed you to your door, and so made sure that I was really an object of interest to the celebrated Mr. Sherlock Holmes. Then I, rather imprudently, wished you good-night, and started for the Temple to see my husband.
We both thought the best resource was flight, when pursued by so formidable an antagonist; so you will find the nest empty when you call to-morrow. As to the photograph, your client may rest in peace. I love and am loved by a better man than he. The King may do what he will without hindrance from one whom he has cruelly wronged. I keep it only to safeguard myself, and to preserve a weapon which will always secure me from any steps which he might take in the future. I leave a photograph which he might care to possess; and I remain, dear Mr. Sherlock Holmes,
Very truly yours,
IRENE NORTON, née ADLER.
"What a woman — oh, what a woman!" cried the King of Bohemia, when we had all three read this epistle. "Did I not tell you how quick and resolute she was? Would she not have made an admirable queen? Is it not a pity that she was not on my level?"
"From what I have seen of the lady she seems indeed to be on a very different level to your Majesty," said Holmes coldly. "I am sorry that I have not been able to bring your Majesty’s business to a more successful conclusion."
"On the contrary, my dear sir," cried the King; "nothing could be more successful. I know that her word is inviolate. The photograph is now as safe as if it were in the fire."
"I am glad to hear your Majesty say so."
"I am immensely indebted to you. Pray tell me in what way I can reward you. This ring — " He slipped an emerald snake ring from his finger and held it out upon the palm of his hand.
"Your Majesty has something which I should value even more highly," said Holmes.
"You have but to name it."
"This photograph!"
The King stared at him in amazement.
"Irene’s photograph!" he cried. "Certainly, if you wish it."
"I thank your Majesty. Then there is no more to be done in the matter. I have the honor to wish you a very good-morning." He bowed, and, turning away without observing the hand which the King had stretched out to him, he set off in my company for his chambers.
And that was how a great scandal threatened to affect the kingdom of Bohemia, and how the best plans of Mr. Sherlock Holmes were beaten by a woman’s wit. He used to make merry over the cleverness of women, but I have not heard him do it of late. And when he speaks of Irene Adler, or when he refers to her photograph, it is always under the honorable title of the woman.
シャーロック・ホームズ様。
実にみごとなお手際でした。わたくしは完璧にだまされてしまいました。火事だ,と叫び声が上がった時も,私は何も気づいてはいませんでした。でもそのあと,あなたに見破られたとわかってから,改めて策を練ったのです。あなたのことはもう何ヶ月も前に警戒するように言われていました。もし国王が探偵を雇うなら,あなたしかいないと聞いていたのです。あなたの住所も伺っていました。しかし,それにもかかわらず,あなたがお知りになりたいことをあなたに教えるはめになったわけです。疑いを持つようになった後も,あんなに魅力的でやさしい牧師様に悪意をいだくことなど,なかなかできるものではありませんでした。しかし,ご存知でしょうが,私も女優の修行は積んできましたので,男装には覚えがないわけではありません。男装することで得られる自由さを利用したことも何度かあります。そこで御者のジョンにあなたを監視させることにして,私は2階に上がり,散歩着(と私が呼んでいるもの)に着替えて降りていくと,あなたはちょうどお帰りになるところでした。
それからお宅の玄関先まであなたの後をつけて,私がほんとうにあの有名なシャーロック・ホームズ氏の関心の標的になっているのか確かめることができました。そこでちょっと軽率ではありましたが,あなたにお休みをいって,夫に会いにテンプル法学院に向かったのです。私たちはかくもおそろしい敵対者に追われている時,最良の手段は逃げることしかないと思ったのです。あすあなた方がいらした時には,家はもぬけの殻になっているでしょう。写真について言っておけば,あなたの依頼人の方は心安らかになさってかまいません。私はその方よりもすばらしい男性を愛し,愛されています。国王陛下が何をさなっても,陛下が無慈悲にもてあそんだ女性がじゃまをすることなどありません。私は自分の身を守るためだけ,私自身を守る武器としてそれを取っておくことにします。将来陛下がどんな手段をお取りになろうと,それで安全を確保できるでしょう。写真を一枚残しておきますので,よろしければ陛下がお持ち下さい。
かしこ。
アイリーン・ノートン(旧姓アドラー)
「何という女だ。まったく何という女だ。」この手紙を読み終えて,ボヘミア王は大声で言った。「言ったとおりだろう。なんと頭の回転が速く,そのくせ,ものに動じることのない女性なのだ。さぞかしりっぱな女王になったであろうな。身分が違うのが実に残念だ。」
「わたくしの見るところ,じっさい陛下には不釣り合いでしょうな。」とホームズは冷たく言い放った。「陛下のご依頼に十分かなうような結末にならなかったことをお詫び申し上げます。」
「とんでもない,ホームズ君。」と国王は言った。「これ以上の上首尾はありえないくらいだ。彼女は約束を破るようなことはしないよ。写真は燃やされたも同然だ。」
「陛下にそう言っていただけると安心いたします。」
「君にはたいへんな借りができてしまった。どう報いたらいいか,何でも言ってくれたまえ。この指輪などはどうかな。」国王はエメラルドの蛇をかたどった指輪を指からすっと抜き取り,手のひらに載せて差し出した。
「陛下がお持ちのもので,私にはそれよりもずっと価値があると思えるものがあります。」
「望みのものは何でも言ってくれたまえ。」
「この写真です。」
国王はあぜんとしてホームズを見つめた。
「アイリーンの写真!」と彼は声を上げた。「よかろう,それが望みなら。」
「ありがとうございます,陛下。それでは,もはやこの件に関しては,もうなすべきことは何もございません。陛下もお元気でおられますようお祈り申し上げます。」ホームズは頭を垂れると,国王が差し出していた手に
大スキャンダルがボヘミア王の命運を揺るがし,シャーロック・ホームズ氏のこの上なく周到な計画がひとりの女性の才知に破れた
【解説】
- You really did it very well. ― it は,アイリーンからすると,一連のホームズの行動すべてを指すことになる。
- You took me in completely. ― take in 「~をだます」。
- I had not a suspicion. ― not + a ~ 「ひとつの~もない」強い否定。
- I found how I had betrayed myself ― betray oneself 「うっかり本性を現す」つまり,火事騒ぎの時にうっかり隠し場所をちらっと見たのをホームズに悟られたことを言っている。ただしこの部分は,各翻訳書は鮎川訳以外は「愚かなことをした」「おぞましきことをした」となっていて,その場合国王を恐喝したことを言っているようにも読める。ただ,アイリーンは国王に対する警戒心は解いていないようなので,「本性を現す,秘密を漏らす」の意味で解釈しておく。
- I had been warned against you months ago. ― warn + O + against ~ 「Oに~に対して(~しないように)警告する」。本文はこれの受け身。過去完了だから,火事騒ぎという過去よりも以前に警告されていた,ということ。
- I had been told that if the King employed an agent it would certainly be you. ― ここも過去以前の過去。上の警告の内容。wouldは仮定法ではなく,will が時制の一致したもの。
- And your address had been given me. ― これも過去完了。警告してくれた人物がホームズの住所を教えてくれたのであろう。
- Yet, with all this ― with all ~ 「~にもかかわらず」 = in spite of ~
- you made me reveal what you wanted to know. ― reveal 「隠していたものなどを明らかにする(show)」。 what you wanted to know は具体的には「写真のありか」のこと。
- I found it hard to think evil of such a dear, kind old clergyman. ― 形式目的語構文。 think evil of ~ 「~を悪く思う」。 old clergyman のような old + 人物 では,old は年齢的なことではなく,単に親愛の情をこめているだけの場合がある。ここもそれ。
- I often take advantage of the freedom which it gives. ― take advantage of ~ 「~を利用する,~につけこむ」。 it は「男装」。
- got into my walking-clothes, as I call them, ― get into ~ 「~を身につける,着る」。 挿入節の as + 不完全文 なので,関係代名詞と解釈しておく。 「私の呼び方では,散歩着」。
- just as you departed. ― depart 「出かける,出発する」。 as は同時性「~時」。
- and so made sure that I was really an object of interest to the celebrated Mr. Sherlock Holmes. ― make sure that … 「・・・を確かめる,確実に・・・であるようにする」。object of interest 「興味の対象」。 celebrated 「高名な」(famous)。
- I, rather imprudently, wished you good-night ― imprudently 「軽率にも」 wish O1 + O2 「O1にO2(幸運など)を祈る」 。Good night はもともと「あなたがよい晩を迎えますように」という祈りの言葉だから, wish ~ good night は「Good night と言う」こと。
- We both thought the best resource was flight ― resource ここでは「手段」。 flight 「逃走,逃亡」 < flee 「逃げる」。
- when pursued by so formidable an antagonist ― when の後ろに we were が省略されている。 so + 形容詞が名詞にかかり不定冠詞を必要とする時は, so + 形容詞 + a + 名詞 の語順になる。 formidable 「恐ろしい」。 antagonist 「敵対者」。
- As to the photograph, your client may rest in peace. ― as to ~(名詞) 「~に関して」。 rest in peace は,May he rest in peace. 「安らかに眠れ」 のように,死者について言うことが多いが,ここはもちろん単に「心安らかにしている」くらいの意味。
- I love and am loved by a better man than he. ― I love (a better man than he) and I am loved by a better man than he. をまとめた形。むろん, he は国王, a better man は Norton のこと。
- do what he will without hindrance from one whom he has cruelly wronged. ― will は意志「するつもりだ」。 hindrance 「妨害」。 wrong (動)「不当に扱う,虐待する」。 one whom he has cruelly wronged とは自分(アイリーン)のこと。国王の言葉ではアイリーンがとんでもないあばずれだという印象だったが,アイリーンから見れば国王は卑劣な男である。アイリーンの行動力や頭のキレを考えると,読者はみなこのあたりからアイリーンに肩入れしたくなるのではなかろうか。
- I keep it only to safeguard myself ― it は写真。 safeguard 「守る,保護する」。
- a weapon which will always secure me from any steps which he might take in the future. ― secure A from B 「BからAを守る」。 take steps 「措置を講じる,手段をとる」。
- I leave a photograph which he might care to possess ― leave 「残す」。 care to V 「Vしたいと思う」。 possess 「所有する」。この写真は,国王とホームズが求めていたものではなく,アイリーンがひとりで写っているポートレート。
- I remain, dear Mr. Sherlock Holmes, / Very truly yours, ― I remain yours truly. 「敬具」にあたる手紙の締めくくりの文句。
- née ADLER. ― née ~ 「旧姓~」。née は英語のbornにあたるフランス語(過去分詞 né に女性語尾-e がついたもの)。ほかに, Mrs. Norton, formerly Miss Adler というような書き方もある。「旧姓」という名詞は maiden name。
- this epistle. ― epistle 「書簡,手紙」。
- Did I not tell you how quick and resolute she was? ― quick 「頭の回転が速い」。 resolute 「意志が固い」。この英語解説シリーズの第10回で,国王は "she has a soul of steel. She has the face of the most beautiful of women, and the mind of the most resolute of men." 「あの女は鋼(はがね)の心を持っている。顔立ちは女の中でも飛び抜けて美しいのに,男も歯が立たないような堅い意志を持っている。」と言っている。
- Would she not have made an admirable queen? ― 仮定法過去。 If she were to marry me 「もし彼女が私と結婚すれば」が省略されている。 make + C は「Cになる」で become と同じ意味だが,「C にふさわしい人物となる」という語感を持つことが多い。
- Is it not a pity that she was not on my level? ― a pity 「残念なこと」で, It is a pity that … 「・・・なのは残念だ」となる。 level 「地位」。捨てておきながら,未練たらたら,というところでしょうか。
- From what I have seen of the lady she seems indeed to be on a very different level to your Majesty," said Holmes coldly. ― of はabout と同じ。この level はむしろ「レベル,水準」。つまり,「彼女の方があなたよりも数等上手で,人間的なレベルがちがいますよ」という皮肉をこめて(だから coldly)に言っている。でも,鈍感な国王には通じていなさそうだ。いずれにしても,ホームズはアイリーンに対し,敬意に近いものを感じているようだ。
- bring your Majesty’s business to a more successful conclusion. ― 直訳すると,「陛下の(陛下に依頼された)仕事を,より首尾よい結末へと導く」。
- On the contrary ― On the contrary. 「とんでもない。それどころか」。
- nothing could be more successful. ― 《仮定法の否定文+thanのない比較級》という公式(18回に既出)。省略された than ~ を補って,「これ以上」とつけてみるとわかりやすい。「これ以上・・・なことはありえないだろう」という意味になる。よってこの文では,「これ以上成功するものはありえないだろう」となり,「大成功だよ」と言っているのと同じこと。 (cf.) It couldn’t be better. 「これ以上よいことはありえないだろう → 最高です。」 I couldn’t care less. 「これ以上気にする程度が低いことはありえないだろう → ぜんぜん気にしない」。
- her word is inviolate. ― one’s word 「約束」。この意味の word はふつう所有格がつき,かつ単数形。 inviolate 「破られることはない」
- The photograph is now as safe as if it were in the fire. ― 「日の中にあるのと同じくらい安全」というのは,すでに焼却されたと考えてもいいくらいに安全だということ。
- I am immensely indebted to you. ― be indebted to ~ 「~に恩義がある」。
- Pray tell me in what way I can reward you. ― Pray = Please。 in what way 「どんな方法で」がセット。
- and held it out upon the palm of his hand ― hold out 「差し出す」。it は指輪。
- something which I should value even more highly ― should は仮定法「もしいただけるなら大切に思うであろう品物」。 even + 比較級 「いっそう~」。
- You have but to name it. ― 副詞の but はonly と同じ。つまり, have but to V = have only to V 「Vするだけでよい」。name 「名前を挙げる」。
- The King stared at him in amazement. ― in amazement 「驚いて,びっくりして」。
- if you wish it. ― 「もしそれが望みならば」。「あげよう」が省略。
- I have the honor to wish you a very good-morning. ― I have the honor to V 「光栄なことに,Vさせていただきます」。wish の使い方は上のwished you good-night と同じ。ここでは, Have a nice trip. と同様,別れのあいさつとして「よい朝を」と言う。朝イチでアイリーン宅に来ているので,まだ午前中。
- turning away without observing the hand which the King had stretched out to him ― turn away 「向きを変えて立ち去る」。 stretch out to ~ 「~へ(めいっぱいに)伸ばす」。かなり失礼な態度だが,権威にとらわれないホームズの態度を示しているのか,それともアイリーンと比べ,国王の人としての小ささへのささやかな侮蔑なのか。
- he set off in my company for his chambers ― set off for ~ 「~へ向けて出発する」。間にはさまっている in one’s company は「~といっしょに」。 chamber 「部屋」。
- And that was how a great scandal threatened to affect the kingdom of Bohemia, and how the best plans of Mr. Sherlock Holmes were beaten by a woman’s wit. ― threaten to V 「Vする恐れがある」。affect 「影響を与える」。
- He used to make merry over the cleverness of women ― make merry over ~ 「~をからかう,ひやかす」。 used to V 「昔はVしたものだ」は,今ではそうではないという含みを持つ。
- I have not heard him do it of late ― 知覚動詞+O+V(原形)の形。 ここでの do it は make merry over the cleverness of women のこと。 of late = lately 「最近」。
- when he refers to her photograph ― refer to ~ 「~に言及する,~の話題に触れる」。
- it is always under the honorable title of the woman. ― title 「称号,肩書き」。 under the name of ~ 「~という名で」に近い。
【おまけ】
ホームズはなぜアイリーンの写真をほしがったのか。
そこには恋愛感情の芽生えがあるのでは,という読み方も当然したくなるのだが,「詳注版シャーロック・ホームズ全集3」(筑摩)の解説には次のような引用がある。
リチャード・アッシャー博士は『ホームズと女性』で,次のように書いている。「ホームズがボヘミア王に[アイリーン・アドラーの]写真を下さいと申し出たのは,彼女を愛していたからだ,と言う節にセンチメンタルな感情の持ち主がすぐに飛びつくのだが,変装術で彼女に負けたホームズが,彼女の写真を自分の記録にくわえようと思ったのは,いつか彼女が再び自分の前に現れた時,すぐに見破ってやりたいと思ったからであることは,きわめて明白ではないか。」
この事件はホームズには数少ない失敗例である。その事件で彼を打ち破った女性の写真というのは,彼にとって敗北の思い出の品なのか,それともあこがれなのか。しかし,このふたつは矛盾しないような気がする。彼女の引き際はみごとで敬意を抱くにあたいするものだったし,国王に対するホームズの態度にもそれが表れている。破れたからこそ惹かれるというのはよくあることではないか。
何らかの点で自分よりすぐれた女性にあこがれをいだくというのは,いかにもホームズらしいような気がする。ホームズほどの知性の持ち主ではない僕も,そういうタイプなんだけど...でも,僕の好みなんか誰も聞いてませんでしたね。