第7回にいたって,依頼人の登場です。
「ボヘミアの醜聞」の雑誌連載当時の下の挿絵(Sidney Paget による)でもわかるとおり,かなり謎めいた,悪く言えばエキセントリックな人物のようです。言葉遣いも,かなりもったいぶった言い回しが使われています。それもそのはず,彼こそは...
As he spoke there was the sharp sound of horses’ hoofs and grating wheels against the curb, followed by a sharp pull at the bell. Holmes whistled.
"A pair, by the sound," said he. "Yes," he continued, glancing out of the window. "A nice little brougham and a pair of beauties. A hundred and fifty guineas apiece. There’s money in this case, Watson, if there is nothing else."
"I think that I had better go, Holmes."
"Not a bit, Doctor. Stay where you are. I am lost without my Boswell. And this promises to be interesting. It would be a pity to miss it."
"But your client — "
"Never mind him. I may want your help, and so may he. Here he comes. Sit down in that armchair, Doctor, and give us your best attention."
A slow and heavy step, which had been heard upon the stairs and in the passage, paused immediately outside the door. Then there was a loud and authoritative tap.
"Come in!" said Holmes.
A man entered who could hardly have been less than six feet six inches in height, with the chest and limbs of a Hercules. His dress was rich with a richness which would, in England, be looked upon as akin to bad taste. Heavy bands of astrakhan were slashed across the sleeves and fronts of his double-breasted coat, while the deep blue cloak which was thrown over his shoulders was lined with flame-colored silk and secured at the neck with a brooch which consisted of a single flaming beryl. Boots which extended halfway up his calves, and which were trimmed at the tops with rich brown fur, completed the impression of barbaric opulence which was suggested by his whole appearance. He carried a broad-brimmed hat in his hand, while he wore across the upper part of his face, extending down past the cheekbones, a black vizard mask, which he had apparently adjusted that very moment, for his hand was still raised to it as he entered. From the lower part of the face he appeared to be a man of strong character, with a thick, hanging lip, and a long, straight chin suggestive of resolution pushed to the length of obstinacy.
"You had my note?" he asked with a deep harsh voice and a strongly marked German accent. "I told you that I would call." He looked from one to the other of us, as if uncertain which to address.
"Pray take a seat," said Holmes. "This is my friend and colleague, Dr. Watson, who is occasionally good enough to help me in my cases. Whom have I the honor to address?"
"You may address me as the Count Von Kramm, a Bohemian nobleman. I understand that this gentleman, your friend, is a man of honor and discretion, whom I may trust with a matter of the most extreme importance. If not, I should much prefer to communicate with you alone."
彼がそう語った時,おもてからは,馬のひづめの鋭い音と,車輪が縁石に当たってきしる音が聞こえてきた。つづいて呼び鈴を引く強い音が響いた。ホームズが口笛を鳴らした。
「あの音からすると,二頭立て馬車だな。」と彼は言い,窓の外を見やりながら「うん,たいそうな小型の四輪馬車に,見事な馬が2頭。1頭あたり150ギニーってところだな。何はなくとも,金にはなりそうな事件だな,ワトソン。」と続けた。
「そろそろ失礼するよ,ホームズ。」
「センセイ,冗談じゃない。そのままにしててくれ。ボズウェル君がいなけりゃ,僕もお手上げだよ。それに今回はおもしろいことになりそうだよ。見逃すには惜しい。」
「でも,君の依頼人が...」
「気にするな。君の助けが必要になるのは僕かもしれないし,彼かもしれない。ほら,彼が来たぞ。センセイはそのひじ掛けいすに座っててくれ。集中して見ててくれよ。」
先ほどから聞こえていたゆっくりとした重々しい足取りが階段から廊下へ移り,そしてドアのすぐ前で止まった。そして大きな,いかにも偉そうなノックが響いた。
「どうぞ」とホームズが言った。
入ってきた男は身長が6フィート6インチを下るまいと思えた,ヘラクレスのような胸と手足を持った人物であった。服装は豪勢だが,イギリスでは悪趣味に近いとみなされるような豪勢さだ。ダブルのコートは,袖と前襟が厚ぼったいアストラカン皮の見返しがついていて,肩に羽織ったダークブルーのマントには深紅の絹の裏地が施されて,首のあたりの輝く緑柱石のブローチで留めている。ふくらはぎ半ばほどまで蔽うブーツは上端にふさふさした茶色の毛皮をあしらってあり,外見全体から感じ取れる野蛮なまでに豪華な印象に仕上げをかけていた。手にはつばの広い帽子を持ち,顔の上半分にかけて,ほお骨まであふれるくらいに広い黒い覆面をしていたが,ちょうどマスクの調整の真っ最中だったようで,中に入ってきた時も手はまだマスクのところから下ろしていなかった。顔の下半分からすると,強固な性格を持った人物らしく,唇は厚く突き出ていて,長くまっすぐな顎は頑固とまで言ってよさそうな不屈さをかもしだしていた。
「わたしの手紙は受け取られたかな?」ひどくしゃがれた声で,強いドイツ語なまりを交えて彼はたずねた。「訪問のことはお聞きだと思うが。」彼は,私たちふたりのどちらに話しかけたらいいのかわからないかのように見比べた。
「どうぞおかけ下さい。」とホームズが言った。「こちらは友人で同僚のワトソン博士。わたしの事件では時々手伝ってもらっています。で,何とお呼びすればよいでしょうか?」
「ボヘミアの貴族,フォン・クラム伯爵とでも呼んでいただきましょう。こちらの紳士は,あなたのご友人だそうだが,きわめて重大な問題を打ち明けてもかまわないほどの信義と分別とをお持ちの方とお見受けする。だか,もしそうでないなら,あなただけとお話しした方がいいと思うのだが。」
- As he spoke ― 直前でホームズは「謎を解決してくれるご本人がやって来たようだ。」と依頼人がやって来たことを察知します。「そう語った時に」ということ。時間の as。
- hoofs ―
- grating wheels against the curb ― grate 「きしむ,きしる」 curb 「(道路の)縁石」 against は接触をあらわし,「~とぶつかって」。
- followed by ― A is followed by B. 「AにつづいてBが起きる」 ここはその分詞構文 being followed by の being が省略された形。
- a sharp pull at the bell ― 当時のベルのしくみがよくわからないので何とも言えないのですが,実際に「引っ張る(pull)」ことを言っているのか,それとも a pull 「(酒の)一飲み,(船の)一漕ぎ」に類するような(1発のような)意味なのか。《小池訳》では「呼び鈴が強く鳴りひびいた」,《阿部訳》では「ベルが強く鳴った」,《延原訳》等もあまりちがいはない。
- A pair, by the sound ― pair は「2頭立て」ということ。1頭でなく,2頭で引くタイプの馬車。当然,所有者の裕福さを示している。音からそう判断したわけである。
- brougham ― ブルーム。小型の馬車の種類の一つ。
- a pair of beauties ― このbeauty は「美しいみごとな馬」。
- A hundred and fifty guineas apiece ― guinea 「ギニー」は,今は使われていない貨幣単位。 apiece は「1つにつき」。
- Not a bit ― not a bit 「少しも~ない」「とんでもない」。 a bit と a little は同じようなものだが, not a little と not a bit はまったく異なる。 not a little 「少なからず,大いに」。
- Stay where you are ― 接続詞のwhere 「・・・ところに」。「君が今いるところにとどまれ」ということ。
- I am lost without my Boswell ― be lost 「途方に暮れる,道に迷う」。 Boswell は英国文学史の中で名高い James Boswell (1740-1795) のこと。18世紀の文学者 Samuel Johnson の伝記を書いたことで名高い。つまり,ホームズはワトソンを自分の業績を記述する伝記作者になぞらえたわけ(Holmes 自身も Johnson 並みの大物ということになる)。Boswell も Johnson も有名なので,当時のイギリス人なら,my Boswell と書くだけでわかる。
- promises to be interesting ― promise to V 「(1)Vすることを約束する (2) Vする見込みがある」 ここは,(2)。
- It would be a pity to miss it ― a pity 「残念なこと」。 miss 「見逃す,のがす」。
- But your client ― 君の客人が(何と言うか? 承服しないだろう), などと言いかけたのである。
- so may he ― So + 助動詞(be動詞) + S. 「S もそうだ」。ここは, he may want your help, too. ということ。
- Here he comes ― Here he comes. 「彼が来たぞ」。既出。
- A slow and heavy step, which had been heard ― had been heard が過去完了形になっているから,「過去のある時点以前に起きたこと」。ここではそれ以前にすでに足音は聞こえていた,それがドアの前で止まった,ということ。
- immediately outside the door ― immediately は時間的に「すぐ」,だけでなく空間的な「すぐ」にも使う。 ここはoutside 以下にかかって,「~のすぐ外」。
- authoritative tap ― authoritative 「権威ある,横柄な」 ,tap 「軽く叩くこと」ここではノックの意味。
- in height ― 「身長は」。直訳すると「身長の点では」。
- the chest and limbs of a Hercules ― limb は「手足(の1本1本)」。Hercules はギリシャ神話の「ヘラクレス」(ローマ神話の「ハーキュリー」)。マッチョな英雄である。ここもやって来た人が,今で言えばプロレスラー並みのガタイをしている,ということ。 a + 有名な人物名 「~のような人」「~の作品」。
- a richness which would, in England, be looked upon as akin to bad taste ― look upon A as B 「AをBとみなす」。would で仮定法過去を表し,「ほかではいざ知らず,イギリスでなら~とみなされるであろうような豪華さ」。 akin to ~ 「~に近い」既出。
- astrakhan ― アストラカン。ロシアのアストラカン地方で産出する羊の毛皮。
- were slashed across the sleeves and fronts ― be slashed 「(衣服で)あき口がついている」 ここは,開いて裏地が見えていることだろうと思われる。 across ~ 「~のあたりにかけて」。
- double-breasted coat ― スーツなどの「ダブル」が, double-breasted 。
- cloak ― マント。
- was lined with flame-colored silk ― be lined with ~ 「~の裏地がついている」 (ex.) The skirt is lined with silk. 「スカートには絹の裏地がついている」
- secured ― secure 「固定する,安定させる」