「ボルジア家統治下の30年間,イタリアで起きたのは戦争,テロ,殺人,流血だったが,同時にミケランジェロとレオナルド・ダ・ヴィンチとルネッサンスを生んだ。スイスには友愛精神と500年に及ぶ平和と民主主義があったが,生み出したものといえば...ハト時計だけだ。」(オーソン・ウェルズ)
映画ファンならずとも知っている有名なセリフ。キャロル・リード(Carol Reed)監督による映画「第三の男」(The Third Man) の観覧車のシーンでオーソン・ウェルズが言うことばだ。
脚本はグレアム・グリーン(Graham Greene)で,後に同名の小説を出版(いわゆるノベライゼーション)。ただし,上のセリフはグリーンのオリジナルではなく,撮影中にオーソン・ウェルズの発案で追加したものだといわれる。
the Borgias 「ボルジア家」(the + 人名s は「~家の人々」「~夫妻」)は15~16世紀のイタリア貴族で政界のみならずローマ教会をも牛耳った。チェザーレ・ボルジアやルクレチア・ボルジアが有名。チェザーレは権謀術数ということばを絵に描いたような人物だから批判も多いが,逆から見れば天才的政治家でもあった。マキャベリの「君主論」は彼から着想を得たといわれる。
平和も民主主義も日常生活も退屈きわまりない。退屈きわまりないことが平和と民主主義と日常の不可分の属性でもある。できることなら,あしたすべてが変わってほしい。それを与えてくれるのは,天変地異や革命や白馬に乗った王子様や戦闘的美少女や,どれでもいいのだが,混乱と激動,疾風と怒濤こそが自分を根底から変えてくれるのではないか,そういう願望を若い一時期に誰もが感じるだろう。
もちろん,そんなものは都合よく現れるはずもないし,そういう願望はカルト集団におけるハルマゲドン待望とたいして変わりはしない。だが,現れるはずもないとわかってはいても,それを願望する側はそれなりに切実である。
それにしても,社会の混乱がすぐれた芸術やら進歩を生み出すというのはほんとうだろうか?実例もいっぱいあるが,反例もいっぱいあげられるような気がする。
戦国時代は日本の歴史の中でももっとも混乱した時代と言えるだろうが,その中から絢爛たる桃山文化が生まれた。しかし,それに続く徳川265年の泰平の世だって,歌舞伎と浮世絵,芭蕉と近松と西鶴,国学・蘭学などの藝術・学藝を生んだではないか。
戦争や軍事が科学技術を発展させるという考え方も,少なくとも80年代の日本の技術がアメリカやソ連という軍事大国の技術を凌駕しえたという事実だけをもってしても,神話とみなすことができるだろう。
だが,江戸時代はそれほど平和で退屈な時代だったのか,平和を謳歌する戦後の日本は冷戦という戦争をうまく利用できる立場にはなかったのだろうか?平和な大地の一層下で混乱したマグマが渦巻いてはいなかったのか?