「説明できない美は私をいらだたせる」 Seven Types of Ambiguity 『曖昧の七つの型』
直訳すると「説明されない美は私にいらだちをかき立てる」となりますが,要するに,「美は説明できないなんていわれるとムカつく」ってことです。
ウィリアム・エンプソンは(William Empson)は20世紀前半に活躍したイギリスの評論家・詩人。分析的でありながら,ことばに対する官能的なセンスを持ち合わせた人で,その点では後のロラン・バルトに似ていなくもないと言えます。
美は,芸術は説明できるのかと問われれば,最終的には説明できないと答えるしかないでしょうが,「最終的に」説明できないということと,ぜんぜんできないことは違います。「最終的に」できないのだからはじめからやっても無駄だ,とも思いません。語学などその最たるもので,ネイティブ並みの語学力なんか無理に決まっていますが,でも語学に意味がないなどとは言えないでしょう。
わたしはハウ・ツーもの,というか方法論ものが嫌いではありません。「映画の撮り方」(画面をどう構成するか,どう動かすか,コマ割りのしかたなど),「写真の撮り方」(フレーム・フォーカス・露出などなど),「小説の書き方」(人物・文体・視点・葛藤などなどなど)。それも分析的なものほどおもしろいですね。なにごとにつけ,神秘化してしまう言説は好きではありません。「人間が・女が書けていない」とか天からのご託宣のような評論ではなく,「センス」「雰囲気」で片づけてしまう半端な議論でもなく,美が発生するメカニズムを精緻に語ってほしいわけです。もちろん,それは一種の解体作業であって,解剖によってすべてが解き明かされるわけではないでしょう。そんなことは百も承知した上で,解剖に解剖を重ねてそれでも解明できないものを「美」と呼んだ方がいいのではないかと思ったりするのですね。
引用箇所が出てくる文脈は以下のとうりです。訳はいつものように拙訳です。
A first-rate wine-taster may only taste small amounts of wine, for fear of disturbing his palate, and I dare say it would really be unwise for an appreciative critic to use his intelligence too freely ; but there is no reason why these specialised habits should be imposed on the ordinary drinker or reader. Specialists usually have a strong Trades Union sense, and critics have been perhaps too willing to insist that the operation of poetry is something magical, to which only their own method of incantation can be applied, or like the growth of a flower, which it would be folly to allow analysis to destroy by digging the roots up and crushing out the juices into the light of day. Critics, as ‘barking dogs’ on this view, are of two sorts: those who merely relieve themselves against the flower of beauty, and those, less continent, who afterwards scratch it up. I myself, I must confess, aspire to the second of these classes; unexplained beauty arouses an irritation in me, a sense that this would be a good place to scratch;
一流のソムリエは自分の口を鈍らせないようにするために,ワインをほんのちょっとしか味見しないが,鋭い批評家も知性を自由に発揮しすぎるのはまあ賢明ではなかろう。だが,こうした専門家的習性を普通の酒飲みや読者にまで押しつけていい理由はない。専門家というものはたいてい強い組合意識を持っているものであり,評論家も,「詩が及ぼす作用というものは魔法みたいなもので,わたしのやり方の呪文しか使えないのだ」とか「詩は花の成長に似て,分析と称して根を掘り起こしたり,花の蜜を絞りだし白日にさらしたりして台無しにするのはぱかげている」とあまりにも主張しがちである。この見方では,評論家は「吠える犬」と同様,二種類に分かれる。一つは単に美しい花に小便をひっかけるだけの者たちであり,もう一つはその後で花をほじくり出す自制心のない者たちである。私自身は後者でありたいと望んでいることを告白せねばならない。説明できない美は私にいら立ちを,ここはほじくるにはうってつけの場所だという感じをかき立てるのである。