「人生は恋愛の敵よ」
江國香織の短編集『号泣する準備はできていた』の中の「熱帯夜」の一節。
「いちどこんなセリフを言ってみてえ」と思いましたね。
大地震をおこして世界中を皆殺しにすることができないのなら,考えても無駄だ。世界の中で,やっていくしかない。
「人生は恋愛の敵よ」
私は,最後にひとことだけ秋美に釘をさす。
「何のことだかわからないでしょうけど」
秋美は笑わなかった。きょとんともしていない。
「わかるわ」
と言って,スツールから降りた。
「じっとしてて」
私のうしろに立ち,背中を抱きしめて肩ごしに頬と頬をつける。
「人生は危険よ。そこには時間が流れてるし,他人がいるもの。男も女も犬も子供も」
おわかりでしょうが,二人はレズビアンカップルです。だからこそこんなセリフが言えるわけです。ほっておけば子供ができて,家庭ができて,生活が始まってしまう男女の仲ではなかなかこうは言えません。でも彼らは恋愛を純粋培養できるのかもしれません。ちょっとあこがれます。
でも,やはり無理でしょうね。彼女たちも無理なことはわかっています。この小説の終わりを読めばふたりの今の決意のようなものが見えます。
「ずーっとこのままならいいのに」
私が言い,
「ずーっとこのままだよ」
と,秋美が言う。そして二人ともいっぺんに噴きだしてしまう。
「そらぞらしい」
だから,冒頭のセリフの注としては,『泳ぐのに,安全でも適切でもありません』の「あとがき」の江國香織自身のことばの方がふさわしいのでしょう。
瞬間の集積が時間であり,時間の集積が人生であるならば,私はやっぱり瞬間を信じたい。
英訳は,意外に悩んで結局ありきたりのものにしました。主語と補語をひっくり返した方が理解しやすいかなとか(やっぱり落ち着きが悪いので却下),an enemy にした方がいいかなとか(他の敵は何なんだみたいな余計なことを考えさせるので却下),love じゃ広すぎるから,romantic love とか passionate love とか passion にしようかな(説明的になってしまうので却下)とか考えたのですが。日本語には「愛」「恋」「恋愛」と微妙にというか,大きく違うことばがあるので難しいところでもあり,おもしろいところでもあります。